和太利 一 (1)


茸だ、と言って清彦は籠を渡した。

久しく訪れなかった友人の邸は、もうすでに秋色に染まり始めていた。
紅葉は端々から紅色に変わり、地に目を向ければ萩、朝顔がひそりと花をつけている。
また離れたところに目を向ければ、こちらは女郎花や尾花が客人を迎えるように賑やかに茂っている。

たそがれどき
誰 彼 時にでも訪れればそれほど趣深いだろう、と思うのだが、なかなかこの邸にそのような刻限に訪ねてくる者は少ない。
せいぜい清彦やその主たる十市致時、または物好きな賀茂家の暦博士といったごく一部の者くらいである。

「また随分と今めかしいものを持ってきましたね」

まぁありがたくいただきますよ、と言って彼の友人―――万里は籠を受け取ると、清彦を邸の中へと入れた。
さらりと藤色の狩衣を身に纏った彼の友人は、相も変わらず清げなる男童のような姿である。
実際、万里は女なのだが、恐らく男である清彦よりも様になっている。


             こしら
「煎り物か何かを 拵 えてきますから、その辺りで少し待っていてください」
「お前がやるのか」
「そうですが。何か不服でも?」
「いや、何か妙なものを混ぜられそうな気がして」
「…あぁ、その手がありましたか」
「お、おい!」

戯れ言なのか本気なのか分からない万里の台詞に、清彦はつい声を挙げてしまう。
万里に遊ばれているのだとは分かっているが、彼女にかかれば剣呑な台詞も場合によっては戯れではない。
彼の友人はそんな危うさを持っている。

そんな清彦の思いを知ってか知らずか、ふ、と妖しげな笑みを浮かべて万里は奥へ消えてしまった。

―――客人を放っておくのか…?
軽く不満に思いつつも、あいつらしいと言えば確かにあいつらしい仕打ちだと納得もしてしまう。

彼の友人、万里は安倍晴明家の家人である。
家人であると同時に弟子でもあり、また清彦などからみれば悪友のような関係にも見える。
この邸の主・安倍晴明は、未だ大した官位に就いていないにもかかわらず
陰陽の道においては公にも市井にも名をなしており、稀代の陰陽師とされる暦博士・賀茂保憲に次ぐ、
或いは肩を並べる男なのではないかと囁かれている。

しかしこの職、仕事柄それ故に忌避される存在でもある。
実際は巷間で考えられているようなおどろおどろしい呪術を扱うばかりの者ではなく、
天を読み暦を作り、地の相を見て未だ来ぬ時を眺め、時として禍を避けるのが彼らの本分であり、
呪などそれらの知識の副産物的なものなのだが、やんごとなき御方々を含め多くの者が何やら勘違いしている。
そういった理由からただでさえ陰陽師は畏怖の念を抱かれているというのに、
同僚の妬みや保憲の悪ふざけのおかげで晴明の評は悪い。
いや、悪いというよりも妖しい。
例えば、勝手に門が開いたり閉ったりする。一条戻橋に異形の者を飼っている。邸で鬼を飼いならしている。
果てには、晴明の母自体が人ではないとまで言われている。

        おうまがどき         たそがれどき
それ故に、逢 禍 時とも呼ばれる誰 彼 時より遅くの来客は常より拍車をかけて少ない。

そんな中で清彦の主、十市致時は時を選ばずこの邸を訪れる数少ない人であった。
致時の義父・有象が天文の道に通じる人物であるので、陰陽道に携わる晴明は何かと親交があり、
それを通じて清彦と万里は知り合うようになった。
もっとも、清彦自身はそのきっかけを覚えていないのだが。


万里の局は邸の最も東にある。
「その辺りで」という言い回しの際はここを指していることが多いので、清彦は「その辺りで」待っていることにした。
男が女の局に入るなどと考えればなかなか大胆なことをしているのだが、
清彦は慣れてしまっているのか遠慮無く中に入る。

局の中は常に、整っているのかいないのか分からない状態である。
小ざっぱりとしていて客人を呼ぶのに相応しい様ではあるのだが、
文机や経机には巻物やら書やらが乗せられる限りまで乗っており、
二階棚にも硯や筆、紙などが整然と並んでいる。

うちみだればこ
打 乱 箱には木簡やら小刀やらが仕舞われており、箱が正しく使用された様子は見られない。
本来 打乱箱は、女人が寝る際に髪を束ねて乱れないようにするためのものである。
男装の彼女には確かに必要ないものであるが、なんだか見ている清彦の方が打乱箱に申し訳なく感じてしまう。
あとは唐櫛笥や鏡箱、鏡台に唐櫃が常の如く並んでいるのだが、
これらの蓋を開ければまた箱とは何ら関わりのないものが入っているのではないだろうか、と清彦は常々考えていた。

使える物は何でも使えということか。
何だか万里の考え方とは違うような気はするが、彼女の振る舞いから考えてあり得なくもない。

適当にその辺りにある円座に腰を下ろして、上げられた簾の向こう側をみやると庭の様子が見える。
木々が揺れていないところを見ると風がないように見えるが、地に目を落とすと、
さやさやと草花がなびいているのが分かる。
決して己を主張しないような、優しい風である。

待たせましたね、と言って万里がやってきたのはそれからしばらくしてのことだった。
片手に茸の煎り物と杯が二つ乗った折敷、もう片方には瓶子を持っている。

「残念ながら酒は出せませんが」

どうやら白湯のようである。
清彦は盛られた茸の煎りものを口にした。口の中に香ばしい香りが広がる。
素直に美味い。

「そういえば、今めかしいとはまたどういうことだ?」
「おや。横川の話、聞いていませんか?」
「…あぁ、あれか。横川の僧が茸に酔って大騒ぎになったという」
「そう、それです」

ほんの二、三日前のことらしい。横川の僧の一人が茸に中るという憂き目にあったのだ。

横川といえば、比叡山三塔の中で最も北に位置する場所である。
慈覚大師円仁が建立した首楞厳院を中堂とし、根本如法塔には円仁の法華経を写本したものがある。
比叡山の中でも十分に伝統と格式を備えた場所である。

「何でも、平茸だと思って心置きなく食べたその茸が毒茸だったとか。
食べてしまった僧は気も狂ったかと思うほどに乱れて反吐を吐き、
法衣を経のようにひしと抱えて念仏を唱えているという始末だったらしい」
「ほう、巷ではそのように言うておりますか」
「何だ。何か間違っているのか?」
「いえ、お気になさらずに」

何やら意味深である。




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