和太利 一 (2) |
その後の話を知っていますか、と尋ねて万里は例の茸を口に入れた。 「うん、一応聞いたには聞いたよ。 困り果てた横川の僧たちは、どこかの寺から名のある僧を呼んできてこの方を導師として平癒を祈っていただいたそうだ。 その導師は腹を抱えて苦しんでいる僧に 『一乗の峯には住み給へども、六根・五内の清浄の位を習ひ給はざりければ、 舌の所に耳を用ゐる間、身の病と成り給ふなりけり。 鷲の山に坐しましかば、しをりを尋ねつつも登り給ひなまし。 知らぬ茸と思すべらに、独り迷ひ給ふなりけり。廻向大菩薩。』 と仰ったそうだ。―――良く分からなかったのだけれど、これはどういう意味だ?」 「つまりですね、あなたは一乗の峯、比叡の山に住んでいらっしゃいますが 五感と心、それに身体の臓腑が清らかである術を習いなさらなかったので、 舌に耳―――これは『耳』という字をその中に持つ『茸』と掛けているのですが、 その茸を舌に入れてしまったために病となって仕舞われたのですね、ということですよ。 六根は目、耳、鼻、舌、身、それに意。五内は心、肝、肺、腎、脾の臓を指します」 「うん」 「鷲の山は、これは釈迦が経を説いた霊鷲山で、もし貴方がそこにいらっしゃったなら枝折をたどりながらでも登りつけたことでしょうに、 口惜しいことに知らぬ茸―――これは峯と茸をかけているのですが、 とにかく知らぬ茸とお思いになられたようで一人で惑いなさったのですねと、 まぁ惑うという言葉も道に迷うのと茸の毒に中って惑うのとを掛けているわけです。体のいいからかい文句ですよ」 「…なんだか、からかうやり口がお前みたいだな」 「おやおや、そんなことはありませんよ」 「嘘をつけ。下手すればお前のほうが非道いぞ」 分かっているではないですか、と万里は鼻で笑った。自ら覚えはあるらしい。 さやさやと、尾花が柔らかく揺れている。 「それにしてもなかなかの皮肉だよな。 ―――でも、よくよく考えてみれば俗世の人間とは違って僧籍に入った方々が、おれたちのように食べ過ぎて食中りなどと 随分俗なことだとも思えてしまうよ」 「まぁ、食の欲と眠りの欲と色の欲は退け難いと言いますからね。 僧籍の者であっても結局は私たちと同じ俗世に生きる者ですから、欲を断ち切るというのは生半なことではないのでしょう」 「そういうものか?」 「私はそういうものだと解釈していますがね。 では逆に聞きますが、今お前が何かやむにやまれぬ己の都合で出家したとして 俗世を全く振り返らず欲を禁ずる生活が出来ると思いますか?出来ないでしょう。 僧とは言っても人は人。抱える煩悩の数は同じです。 生きている限りは所詮、生きることへの願望は断ち切れぬものだと思いますよ。むしろそれが自然の理というものです。 それに欲を捨てようと思うこと自体が欲でもあるわけですから、まぁ難しいことですよね」 「ふうん」 仏道は詳しくないですから断言はできかねますが、と万里は結んだ。 風が強くなってきたようだ。 さらさらと木の葉が擦れ合う音が聞こえる。 「実はその話、まだ続きがあるのですが」 「続き?」 知らないようですね、といって白湯の入った杯を傾けた。 「その僧が召し上がった平茸―――結局は毒茸だったわけですが、騒ぎの後に無くなっているんですよ」 「何?」 「実を言いますとお前が聞いたその話、真の話とはまた少々違っていましてね。 お前の聞いた話では『ある僧が平茸と誤って毒茸を心おきなく食べた』とされていますが 本当のところその御方が食べたのは親指の爪ほどであったようです」 「それだけで茸に酔われたと」 「しかもその茸がなくなった。横川の方々がお気づきになったのは、その導師がお帰りになって例の僧も落ち着いた後だそうです。 取ってきた茸は一つだけだったようですがかなりの大きさで、僧が試しに食べたのも傘の端の少しだけですから まぁほとんどそのままの大きさですよ。それがまるまる消えてしまった」 「誰ぞ捨ててしまったのではないのか」 「横川の方々もそう思って皆に聞いてみたようですが、誰も名乗り出る者はいなかったそうです」 「ふうん」 不思議なこともあるものだな、と言って清彦は茸を摘んだ。 毒茸の話をしながら茸を食すというのは、清彦もこれでなかなか図太い神経の持ち主であるようだ。 「不思議なこともあるものだな、では済みませんよ、十市」 「ん、何故だ?結果として毒茸は無くなったんだし、いずれ捨てるはずだった物のだからよいのではないか」 「考えてもみてくださいよ。誰も捨てた覚えがないのに消えてしまったということは、無くしたか誰かが密かに持ち出したかのどちらかです。 無くしたものを忘れた頃に見つけて、それで皆で食べてしまおうものならそれこそ大惨事ですし 誰かが密かに持ち出したのならそれも質が悪い。 消えたのは口にしただけで前後不覚になってしまうような毒茸ですから、平茸だと言って料理されて誰ぞの食にでも盛られたりしたら」 「―――大変じゃないか!」 「そういうことです」 と言いながらも、万里は何でもないことのような様子である。 むしろ楽しげと言ってもいい。 「まぁ、事の顛末には大方目星がついていますが」 「本当か」 「ええ」 「………『ええ』だけかよ。話してくれてもいいだろう」 「今の話だけでは話せませんよ。人の名に傷を付けることにもなりかねない話ですし 私の勘違いであれば相手のご迷惑も甚だしいというものです。 私の考えていることが真であろうと偽であろうと、風の知らせというのも侮れませんし、それに」 京は何かと耳が多いものですから―――。 聞き漏らしそうなほど細い声音で、彼女はそう呟いた。 どういう意味だろう、と清彦は心に引っかかりを覚えた。 「でもこれで私もお前も知っていることは同じになりますから、件のことが誰によって仕組まれたかくらいは考えられるはずですよ」 「―――仕組まれた?」 「おっと、話がすぎたようですね。忘れてください」 その言葉とは裏腹に、全く焦った様子はない。 まるで、「仕組まれた」とこを聞かせるために言ったようにすら感じる。 何となく不審に思いながらも、清彦はさらに茸を摘んだ。 |