和太利 一 (3)


風が几帳の端を、はたはたと揺らしている。

「しかしまぁ、私も安く見られたものですね」

「は?」

「は、ではないでしょう。平茸くらいで許しを乞おうなどというのは甘い考えですよ」

「……今日ここに来た時から思っていたけれど、安倍もなかなか執念深い奴だな」

「執念深くはないでしょう、お前のお陰でどれだけ苦労させられたと思っているんですか。
何なら、お前の主や愛しの君にでもお話しして―――」

「いや、分かった、悪かったから」

困ったことに、清彦は万里に借りがある。
彼が最後に友人邸に訪れたのは一月前。夏の暑さが残る頃である。
生憎にも万里は不在で、この時も今と同じように彼女の局で待つこととなったのだが、
運の悪いことにその時に別の客人とかち合ってしまったのである。
相手方は清彦のことを「例の安倍の家人」と思ったらしく一方的に話したて、清彦の方もその話に流される形でその件を受けてしまった。
邸へ戻った万里は、清彦が受けた話を聞き珍しく顔色を変えて、そのまま清彦を追い返した。

さすがに不味いことをしたと反省した清彦は何度か詫びに行こうとしたのだが
万里は常に不在、もしくは忙しくて構っていられないと断られ、それが一月(ひとつき)である。
その間、巷では土御門の陰陽師が藤家の大事を預かっているとの噂が流れていた。

―――おれの所為かもしれない。

内心冷や汗を流しながらそう思っていた頃に、主の致時から晴明の件がどうやら一段落ついたらしいという話を聞かされた。
致時自身もしばらく晴明に会っていないし、丁度いい酒が手に入った頃であったので久しぶりにかの友人と酒でも飲みたいのだが
件のことが片付いたといっても晴明は何かと多忙な身であるし伺ったはいいが忙しければ申し訳ない―――、
そういうことで清彦に都合を聞きに行ってほしいとのことだった。

晴明の手が空いた、ということは万里もまた忙しさからは離れたと考え得る。
ただ、師匠から弟子へ、また弟子へと盥回しにされた厄介ごとの落ち着く場所である万里のもとには
まだ安寧など訪れていないかも知れない。もしそうであれば彼女の機嫌は最悪であろう。
伺ったが最後、数々の皮肉と嫌味と小言をさらりと突き刺さるように浴びせられて追い返されることすら想像できる。

しかし逆に、久しぶりに彼女の手が空いているとなれば来客としてそれ相応に応じてくれるはずである。
多少と苦言は否めないが。

―――行ってみないことには分からぬか。

そうして己を納得させて安倍邸にやってきたのが今日のことである。
結局、どちらの場合でも万里の小言から逃れられないのは惜しくはあるが、事の起こりが清彦自身である以上諦めるよ<り他はなく
何より致時からの命である以上は違えられない。
清彦は元来、真面目な男なのである。

手ぶらでは何だから、と清彦の妻・楓から平茸を渡され「万里殿によろしく」と笑顔で送り出されてしまっては
もうどうにも後に引けなくなってしまったというのも原因の一つである。
妻もまた、万里と懇意にしている人間の一人であった。

そこまで思い出して、清彦は一つ溜息をつく。

「ずるいよな、お前」

「何がです?」

「楓にしても致時様にしても、絶対お前に騙されてるよ。
万里殿はいいお方だ優しい方だと宣うし、楓なんかは初めお前に惚れていたくらいだ。
二人きりにさせると今でも時として赤くなる」

「ほう、妬いているんですか」

「な、何を―――」

「おやおや、怒ってはいけませんよ十市。
今のお前は安倍の客でもありますが詫びに来ている立場でもあるんですからね」

「………」

ぐうの音も出ない。
まず口では彼女に勝てた試しはないのだが、ここまで言われるとさすがに腹が立ってくるし、加えて情けない。

「そこで、ですが」

にやり。
例の不可解な笑みがさらに深まったように見えるのは清彦の気のせいか。

「お前には一つ、手伝っていただこうと思うのです。それで帳消しにしようではありませんか」

「手伝うって―――何を」

「金峯山寺は知っていますか」

「ああ、吉野の方にある修験道の寺だな」

「はい」

「それがどうしたと言うのだ」

「行ってもらえませんか。私の代わりに」

「は?」

随分間の抜けた声である。
さも当然なことのように言ってのけた万里に、清彦はついていけなかった。

「お前の代わりに?」

「ええ」

「いつ」

「そうですね、長くて今日から半月ほど」

「は!?」

清彦は折敷を引っくり返さんが勢いで身を前に乗り出した。

「待て安倍。おれは十市家の家人で致時様の従者なんだが…」

「知っています」

「ならば、お前の頼みが無理なものだということも分かっておるよな?」

「安心なさい、致時様には私から話をつけておきましょう。お前がいない間は十市の家に我が手の者を伺わせますので。
まぁ、お前の役目程度のことなら充分こなして見せましょうよ」

「…はじめから今日おれがここに来ることを見越しておったな」

「いえ逆ですよ。お前がここに来るように仕向けておいたんです」

つまり万里の術中に嵌ったということである。
藤家の件が一段落ついたと巷間に流したのは万里の手の者なのかも知れない。
もしかすると、安倍の陰陽師が大事に関わっていると大げさに吹聴して清彦を狼狽させたのもこのためだったのでは、とすら思ってしまう。
さすがに己が友人だと思っている者をそこまで人非人だとは考えたくないが
万里も含めて彼女の周りにいる陰陽師たちは揃いも揃ってそうしたことをしでかしかねない雰囲気を持っている。

問いつめても語らない。それどころか切り替えされて、はぐらかされて、しかも口では勝てないときている。
八方ふさがりである。


き、と清彦は万里を軽く睨んだ。

「お前、本当に嫌な奴だな」
「おや、知らなかったんですか」

睨まれた彼女は、どこか楽しげに飄々としている。
野分を受け流す柳のように、あるいは流れの中に根付く水草のように、万里は清彦の非難を受け流してしまう。
受け流すといっても万里とて時と場合は選んでいるようだが、清彦からすれば面白くない。

「そうやって人を術にはめるから、お前は妖だの式神だの狐だのと言われるんだ。
文を寄越すとか使いを遣るとか、もう少しまともに呼び出そうとは思わぬのか」

「できれば私もそうしたいのですがねぇ。―――実は私が文を出すと相手方に禍がおよぶ病を患っていまして」

「嘘をつくな、嘘を」

ふ、と万里は声を出さずに笑った。

これは馬鹿にされたと取るべきか、はてまた他意があるのか。
どこまでいっても喰えぬ者である。

「―――万里様」

不意に几帳の裏から声がかかった。
足音も人の気配も全く無かった布越しに、いつの間にか人影がある。
気がつかなかったという程度のものではない。分からなかったのだ。

致時の従者として武芸もたしなんでいる清彦にとって、それは驚きであった。
万里との会話に耽っていたとはいえ、さすがにこれほど近くにいる者の気配が露ほども分からなかったのである。
―――これも、安倍邸が人から遠巻きにされている所以であろうか。
清彦はそんな風に思っていた。

「東間(あづま)ですか」

「はい」

低い男の声である。
恐らく、万里の言う「我が手の者」の一人であろう。

「金峯山寺の御方がいらっしゃいました」

「分かりました。今参ります」

すく、と万里は立ち上がった。

「さて参りましょうか十市」

「ああ?」

「だから、金峯山からお前を迎えにいらっしゃったのですよ。お前が行かなくてどうするのです?」

「―――た、謀ったな安倍」

清彦はもう怒りを通り過ぎて呆れすら感じていた。
わざわざ使いの者までやってきた以上、万里の「手伝い」から逃れることはできぬ。もう金峯山寺に行くより他はない。
とても不本意ではあるが。

「分かったよ。ただし、これで借りはなしだからな」

「充分です。恩に着ます」

満足そうな万里の様子に、清彦はやはり騙された感じが拭いきれなかった。





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